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25年間ありがとう、退任した伊藤智仁コーチにありったけの感謝を込めて

by て.いとう

神宮の星―まばゆいきらめきを放った現役時代

1992年のドラフト会議から、今年で25年になる。92年のドラフト会議の目玉は、星稜高校の松井秀喜と三菱自動車京都の伊藤智仁だった。それぞれ、巨人長嶋監督とヤクルト野村監督が抽選で引き当てた。90年代のプロ野球を代表する名場面だ。

うちの家族は祖父祖母から全員巨人ファンで、当時の僕は別にヤクルトファンではなかった。

1993年6月9日。皇太子と雅子さまが結婚の儀を行ない、パレードをして、日本中が祝賀ムードに包まれていた。その日は、急遽、祝日になったので、多くの人が家で野球中継を観ていた。当時はまだ地上波で野球がやっている時代で、金沢の石川県営野球場で、巨人ヤクルトの試合が行なわれた。巨人先発は、ドラフト2位ルーキーの門奈哲寛。ヤクルトはドラフト1位の伊藤智仁だった。

僕は居間で父親と野球を観ていた。我が家では、どちらかと言うと、ドラフト1位でもおかしくないと言われた逸材の門奈を楽しみにしていた。ストレートこそ130km/h台だが、あの山本昌にも匹敵すると評されたスクリューボールがどんなものか楽しみだった。

試合が進み、ルーキー同士の投げ合いは息詰まる投手戦になった。すると、父が口を開いた。

「門奈はそれなりだが、ヤクルトの伊藤は凄まじい」

テンポよく快速球と、恐ろしいほど曲がるスライダーを投げて三振を奪い続ける伊藤智仁に僕はいつしか魅了されていた。結局、その試合ではセ・リーグタイ記録となる16奪三振を奪ったものの、9回裏に篠塚にサヨナラホームランを打たれて、マウンドに崩れ落ちた。「悲運のエース」と呼ばれる智さんの最も印象的なシーンだ。

僕は、伊藤智仁の試合に連れていってもらうよう父に頼み込んだ。当時は予告先発が無かったが、元高校球児の父がその後の日程から予測して、チケットを買ってくれた。1993年6月22日。神宮球場で行なわれた対広島戦だった。僕は、この日、生まれて初めて神宮球場に行った。

試合は、智さんと佐々岡の投手戦になった。智さんは絶好調で6回までノーヒットピッチング。その後、「スペシャルな相手」と語った天才・前田智徳にボール球を打たれてノーヒットノーランの夢は砕かれたが、見事なピッチングだった。終盤にピンチをつくったものの、気迫の投球で三振を奪い切り抜けた。右腕を突き上げたガッツポーズがカッコよかった。まさに鬼神だった。

このカープ戦で6勝目。順風満帆に見えたが、7月4日の巨人戦を最後に肘の故障で離脱してしまった。松井秀喜を抑えて新人王を獲得。規定投球回数には達していないが、防御率は驚異の0.91。その後、オフに肩を故障したのだが、これがいけなかった。手術を受けたものの、治る見込みはなく、長いリハビリに突入する。

僕からすれば、せっかくファンになったのに、1996年に復帰するまでひたすら待ち続けることになった。当時のヤクルトは強く、池山も古田もカッコよかったが、心移りはしなかった。それくらい、あの日のピッチングが凄まじかった。

1996年。僕はもう高校3年生になっていた。智さんが東京ドームで長いリハビリから復帰。93年と変わらないピッチングを見せてくれた。当時はよく神宮やドームに行った。翌1997年は大学に進学し、智さんはストッパーとして活躍していた。よく大学の先輩と一緒に観に行って、毎日幸せだった。その年のヤクルトは開幕から首位を譲らず、セ・リーグを制覇。徹夜で並んで買った日本シリーズのチケット。檜舞台で智さんは打たれもしたし、活躍もした。とにかく全てが輝いていた。初めて生で目にしたヤクルトの胴上げは最高だった。

1998年以降は、先発に復帰したが、どうしてもあのルーキー時代の活躍はできなかった。それでも、すごい投手だったのだが、もっとできるはずだから、歯がゆかった。2001年以降は、故障がさらに多発し、気付けば2003年になっていた。

2003年の秋、新聞に智さんが投げるという報道が出た。僕は、例によって復活するんだと期待した。1996年のように、またすごい球を引っさげて戻ってくるのかと思うと嬉しかった。

2003年10月25日秋季コスモスリーグ対巨人戦。ヤクルト戸田球場には普段よりたくさんの人がいた。智さんが登板するとみんな沸いた。しかし、その投球は100km/hを少し超えた程度で、習得したと噂されていたナックルボールも通用しなかった。僕は悲しい以上に、腹が立った。散々待たせてこれかと思った。まだ若かったから、そんな気持ちでいっぱいだった。その年のファン感で智さんは引退のスピーチをした。とにかく悲しかった。涙が止まらなかった。

球史に残るほどの実力を持ちながら、怪我で現役生活の大半をリハビリに費やした智さん。翌2004年は育成コーチとなったが、それでもなお、現役復帰を目指していたと後から聞いた。決して諦めない不屈の闘志。そんな智さんの姿勢は、ルーキー時代のきらめきを超える。

引退。そして、指導者へ

その後、本格的に二軍投手コーチとして指導者の道を歩み始めた。「戸田なんて野球選手をアイドルだと思っている奴が行くところ」なんて思っていた僕だが(今でも多少思ってるが)、この頃はよく戸田球場に行った。現役時代は、怪我が心配でこれまでサインをあまり貰えなかったけど、この頃はよくお願いした。

2008年、荒木大輔コーチが一軍投手コーチに昇格することになった。智さんは荒木コーチに頼まれて、同時に一軍のブルペンコーチに昇格していった。神宮球場に智さんが帰ってきた。この頃は、野球人気が本当に低迷していて、神宮はガラガラだったけど、毎日智さんが観られるのは嬉しかった。

「あれだけの投手をダメにしたのだから、ヤクルトは一生面倒をみるべきだ」

智さんについて、こんな風に語れることは多かった。野球チームのコーチというのは毎年契約を延長するかどうかが球団主体で決められるものだが、僕はどこかで安心していた。智さんはしばらくコーチを続けるだろう。ヤクルト側から解任されることはまずないだろうと思っていたし、実際その通りになった。

2013年と2014年、ヤクルトは2年連続最下位に低迷した。その頃、智さんはある知人にこう話したという。

「優勝するなら真中しかいない」

当時、一軍チーフ打撃コーチだった真中満。智さんとは同い年であり、ドラフト同期でもある。公私で親しく、お互いをよく知っていた。そして、2015年にそれは現実のものとなった。2001年以来、14年ぶりのリーグ優勝。智さんは一軍投手コーチとして、最優秀救援防御率を達成した。

しかし、翌2016年は外国人投手の離脱や、故障者の続出がありチームは5位に低迷。一方で、ドラフトでは2015年16年と有望な新人を次々に獲得し、球団はその育成を一軍投手コーチのチーフ格だった高津に委ねた。

高津が二軍監督になり、空席になった一軍チーフ投手コーチの座に智さんが繰り上がった。本来なら喜ばしいことだが、僕は覚悟を決めた。ブルペンコーチとは違い、結果を求められる立場。成績が悪ければ退任ということもある。さらに、真中監督は2017年が契約最終年だった。真中監督が辞めれば智さんも辞めかねなかった。こうして、張り詰めた気持ちで2017年シーズンが始まった。好成績を叩き出して、数年後に監督になるか、それとも結果が出ずに退任となるのか。二つに一つ。もう後戻りはできない。

こうして、張り詰めた緊張感を持ちながら、2017年シーズンが開幕した。ヤクルトが好きだから、当然勝って欲しい。でも、負けるなら打ち合いで負けるより、投手陣は抑えたけど打てないで負けるかたちになってくれ。そんな身勝手な願いも持ちつつ。春先の5月までは本当に投手陣はよくがんばった。チーム防御率もリーグ1位、2位を争った。しかし、キャンプから真中ヤクルトのコアである「2番川端」を椎間板ヘルニアで欠き、大引、畠山、バレンティン、雄平と主力選手が次から次へと離脱。山田哲人は徹底的にマークされ、成績を落とした。毎日毎日、胃が痛かった。人には言わなくても、打てない打線も、打たれる投手陣もぶん殴ってやりたい気分だった。こっちはクビがかかってるんだ、と。

野球はチームスポーツだから、打撃がダメでも投手陣がいいなんてことはない。チームが点を取ってくれないとリズムがつくれず、ピッチャーは粘れなくなる。また、援護が期待できないので点をやれなくなる。だから、際どいところに投げなければならず、四球でピンチを招いて崩れる投手が多かった。原樹理やブキャナン、ルーキーの星など好投しても次々と見殺しにされた。野球はチームスポーツで打撃陣も投手陣も一蓮托生だ。そんな当たり前のことを改めて痛感した。

7月。低迷するチームになんとか起爆剤をということで、エースのライアン小川をストッパーに配置転換した。この案は智さんが提案し、真中監督が採用した。しかし、これは全く機能せず、「七夕の悲劇」を引き起こしてしまった。この頃、真中監督は自らの辞意を固めていったという。エース小川のストッパー転向は、悪手と評されることが多いが、当時のヤクルトはそれくらい追い込まれていた。生き残りを賭けて、藁をもつかむ思いだったに違いない。

8月22日。ついに、真中監督が今シーズン限りでの辞意を表明した。この時、僕は智さんもコーチを辞めるだろうと本格的に覚悟を決めた。真中は「全責任は自分にある」と選手やコーチ陣を庇ったが、智さんは真中監督ひとりに全てを背負わせるような人ではないからだ。

9月21日。新聞でヤクルトの次期監督に小川淳司シニアディレクターが再登板という報道がされた。ヘッドコーチに宮本慎也氏を招聘するのが条件だという。そして、その一週間後、智さんが記者に対して、退任の意向を発表した。プロの世界だから、結果を出さなければいけない。あまりにも厳しい世界だけど、それが勝負に生きる人の世界だから、仕方ない。

初めて新聞で智さんの退任報道を読んだとき、正直言って、すごくホッとしたというか、安堵感に包まれた。そのあとは、抜け殻みたいな脱力感もあった。智さんと共に張り詰めたシーズンを過ごしてきて、それが終わったからだ。悔しいとか、残念という気持ち以上に、安堵感と開放感。肩の荷が下りた気がした。

智さんが一軍投手コーチのチーフ格になって、最大の功績は、不足がちだった先発陣を整備したことだと思う。ライアンはルーキー時代のストレートを取り戻したし、新人の星もよかった。そのなかでも、最も成長したのは原樹理だろう。1年目の甘さが消え、ピンチでも粘れる投手になった。樹理は9月28日のカープ戦のあと「いまの自分があるのは、伊藤コーチのおかげでしかない」と語った。智さんから学んだことを忘れずに、これからのヤクルトを支えて欲しい。

本音を言えば、智さんが責任を取って辞めるというのは納得できない。野手の選手層が薄く、主力が次から次へと故障して、まるで打てなかった。選手層が薄いのはドラフトを外し続けた編成が悪いし、怪我が多いのは各選手やトレーナー、環境に問題があると思う。打撃陣の低迷によって、投手陣がリズムを作れず、1点もやれない状況のなかで、どんどん苦しくなっていったのは事実だ。でも、今更言っても仕方ない。ヤクルトは球団ワーストの黒星を重ね、チーム防御率は最下位だったんだから。過程ではなく結果の世界。

1992年ドラフトで智さんがヤクルトに入団してから、来月で丸25年になる。その間、選手・コーチとして切れ目なくヤクルト一筋でやってこれた。こんな幸運な野球選手は、長い野球界の歴史のなかでも、ほんの一握りしかいない。そして、僕も好きな選手が25年近くも好きな球団にいてくれたのだから、とても幸運なファンなんだと思う。智さんを初めて観たとき、僕はまだ中学生だったけれど、もう40手前の妻子持ちになった。時間がすごい経ったんだなあと改めて思う。

24年と11ヶ月。本当にお疲れ様でした。あなたのファンをやっていて、辛い時も多かったけれど、本当によかった。少年時代、ルーキーのあなたに夢を貰いました。青年になってからは、どんな逆境でも諦めてはいけないということを教えて貰いました。いまでも辛いことがあったとき、めげずに戦うあなたを思い出してがんばっています。間違いなく歴代最強投手。そして、それだけの力がありながら、度重なる怪我でも諦めなかった姿こそ、あなたの真髄だと思います。

コーチを退任して、これから

さて、智さんはこれからどうなるのだろう。報道を見る限り、コーチの退任だけではなく、退団すると書いてあるから、フロントにも入らず、自由の身になるのかな。

個人的には、ヤクルトになんらかのかたちで残って欲しいけど…解説者になるのなら、僕の好きな『サンデーモーニング』に出演したり、モルツドリームマッチなどの試合に出てくれたら感激だ。数年後、同い年で盟友の慎也さんが監督になったら、コーチとして呼ばれるかもしれないし、まだまだ何があるか分からない。それが人生だ。

僕は変わらず、智さんのファンだし、ヤクルトのファンであり続ける。ただ、ひとつだけ希望を言えば、いつかヤクルトに智さんと同じレベルのピッチャーが入ってきて欲しい。智さんが引退してから、ずっとそれを待っている。野球をずっと観てきて、智さんと同じ次元のピッチャーだなと思ったのは、斉藤和巳とダルビッシュ有だけだ。彼らのようなピッチャーがいつか、神宮のマウンドに舞い降りる日を楽しみにしている。できれば、智さんと同じ背番号を付けて。

智さん、今まで本当にお疲れ様でした。最後に、神宮で胴上げされるあなたを見ることができてよかった。あなたのファンで幸せでした。

智さんの輝きは、永遠だよ。


て.いとう
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